Arlen ness.
「Kohはアーレンに逢ったことあるんだよね?」
「うーん、見たことはあるけどあれは逢ったことにはならないよね。逢うっていうのはわざわざその人のために時間を割くってことだろ?俺はただ見かけたことがあるってだけ」
ふーん.・・・、Kohのフィロソフィーってのはこういうときに強く出てくる。
今から話すことはもう20年以上前の話なので、かなり曖昧な部分もあるし間違ってることもあるかもしれませんが、よかったらお付き合いを。当時から記念撮影嫌いというか、どんなに憧れ尊敬する人に会っても自分から声をかけて近づくことが苦手なKoh。そんな偏屈な性質ゆえに記憶以外の記録がどこにも残っていない。なのでKohの頭の中の記憶をたどるしか方法がないのだが、経験した本人には鮮明に残っているであろう記憶も、その時間を共有していない私には想像することすら難しい。どこへ行くにも独りぼっちだったKohの当時のアルバムを一緒に見返しながら、「あの頃はさ~」なんて二人で話せたらどんなに楽しいだろう・・・と今になって思う。あー残念でならない。
Kohがまだ10代だった頃、東京でモーターショウがあって(ショウの名前を失念)観に行ったKoh少年。今となってはその夢のような豪華さが信じられないのだが、そのショウにはネス本人とネスのカスタムバイクが5台ほど招待されて来ていた。その中にはあの泣く子も黙る名作TWO BADも展示してあったのにKoh少年は、「なんだよ、傷だらけじゃねーか」と大して興奮もしなかったんだって。「あんなものを見せられてもその価値がわからないんだぜ?考えられるか?それだけ俺が何も知らない何も分かっちゃいない無知な子どもだったってことだよ」あの頃の自分を振り返ると、ものを見る力の無さに唖然とするらしい。ものを見る力も考える頭も、本当に子どもだったんだなあ、と思うんだって。
そして時は過ぎ26歳になったKoh青年はアメリカへ。ラフリンリバーランでもネスを見かけた。まあ大きなショウやランに参加すれば有名人の一人や二人くらい見かけるだろう。そのときもそうだった。そしてそれらはいつもKohを興奮させなかった。
アメリカでのKohはそれはそれはお金が無くて、何かの冗談か?てくらいお金が無かったらしい。だけど少しの技術と知識を持っていたから、誰かが長いランに出るときにはトラブルがあったときのために修理担当として同行させてもらえるラッキーな仕事に巡り会うことが時々あったんだって。2001年のレッドウッドランもそういう経緯だったらしい。ここでもKohはネスを見た。でも今までの「見た」や「見かけた」とは全然違う、ものすごい強烈な見方をした。どこまでも続く砂漠の中を走っていたら向こう側からイエロー色のTシャツを着た大勢が走ってきてすれ違った。時間にしたら何秒?てくらい。でもその一瞬で、先頭を走っているのがネスパトロールに乗ったネスだとすぐに気が付いて全身の鳥肌が立って大興奮したんだって。そしてネスの後ろを走っていたイエロー色の集団は、あのハムスターズだった。これがKohがネスを見かけた最後になってしまった。


ネスのことをずっと親戚のおじさんみたいに慕ってネスおじさんと呼んでいた(勝手に) 正確にはネスの創り出す全てを心の底から憧れて尊敬して大好きで大好きで大好きで、もうそのネス愛はここには書ききれない。その大きな愛と憧れと尊敬は今ももちろん現在進行形で、今年1月のヴェローナでSTEED STERを見たコーリーとザックに声をかけてもらったときには、人生にこんなことが本当に起こるものなのか?と思ったのと同時に、本当はアーレンにも見てほしかったけど今年は来なかったんだなと少し残念に思っていたけどヨーロッパは遠いから飛行機で長旅するのも年齢的にも大変だろうね、と話していたの。今となっては本当にいろんな偶然が重なって不思議なんだけど、何か思うところがあったのか、ヴェローナから帰国してすぐに自分用のリッパーを作り始めていたKoh。先日もアメリカからそのリッパーに使うカウルが届いて「かっこいいだろ?」と私に嬉しそうに見せびらかしていた矢先の出来事だった。こんなことを言ったらKohにまた、「ただの話を美しい物語みたいに勝手に書くなよ!」と叱られそうだけど、オートバイの神様に導かれたとしか思えないことがKohにたくさん起こったの、20年以上の歳月をかけて。過ぎてしまえばあっという間、それでも長い長い20年だった。何だかしんみりしちゃうけど素敵なリッパーが完成するといーね!

この偶然物語はもう少しだけ続きます
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